おひな様はどうやって今の姿になったの?
2023.02.20
こんにちは。まだまだ冷え込む日が続きますが、暦の上ではもう春。3月3日のひな祭りがすぐそこまで近づいています!
ひな祭りの主役といえばやっぱりおひな様ですね。実はこれまでに様々なスタイルや流行があったことはご存知でしょうか?今回は、雛人形が今の姿になるまでの歴史を書いていきたいと思います!
雛人形のはじまり「立ち雛」
そもそもひな祭りの起源は、今から1000年ほど前の平安時代に遡ります。
当時、人の形をした紙「人形(ひとかた/かたしろ)」に穢れを託し、水に流してお祓いをするという行事がありました。源氏物語の須磨の巻には、この紙人形を海に流すエピソードがあります。
同じ頃、貴族の少女たちの間では紙製のお人形で遊ぶ「雛遊び(ひいな遊び)」が流行しており、この雛遊びの文化と前述の行事とが重なってひな祭りの土台が出来上がっていきました。
最初の雛人形である立ち雛が生まれたのは、室町時代頃ではないかといわれています。文字通り立った姿勢のおひな様で、男雛と女雛だけのシンプルなものです。当初は和紙製で、自立しない平面的なつくりでした。
最初のおひな様が誕生したものの、安土桃山時代頃まではまだ「祓いの行事」としての意識が強かったようです。
ひな祭りが華やかなお祭り行事として認識され始めたのは、戦乱の世が終わった江戸時代からでした。その頃になると徐々に織物を用いた立ち雛が作られ始め、お人形らしい立体感がでてきます。
立ち雛は現代でも作られており、その歴史の深さから今もなお人気を誇っています。
座ったおひな様が登場!「寛永雛」
立ち雛の登場からしばらくして、江戸時代初期に寛永雛が誕生します。大きさは10cm程度と小さなサイズ。男雛の頭は冠と一体化していて、女雛は両手(両袖)を広げた状態のものが主流でした。
何より大きな特徴は「座り姿」だったことです。紙人形の名残がある姿から離れたのは、人々の雛人形に対する認識が「儀式の道具の延長」から「観賞用のお人形」へと変化したことを示しているのかもしれません。
しばらくの間、ひな祭りは貴族間だけで行われていました。寛永6年(1629)には後水尾天皇の中宮(妻)である東福門院が、娘のために京都御所で盛大なひな祭りを行った、という記録が残っています。
その後ひな祭りの習慣は京都御所から幕府へと伝わり、徐々に庶民の間でもポピュラーなものになっていきました。それに伴い、おひな様もどんどん姿を変えていくことになります。
豪華絢爛!「享保雛」
元禄時代から享保時代初期にかけて、土地開発が進んだことで人々の経済力は急激に高まっていきました。
八代将軍徳川吉宗公の代に誕生した享保雛は、そうした時代を反映するかのように豪華に着飾ったおひな様です。装束には金襴や錦を用い、華やかな装飾が施されていました。
裕福な商家から庶民まで幅広い層に愛され、お道具のほかに官女などの添え人形も登場するなど、バリエーションも豊富に作られました。
そしてなぜか、徐々にサイズが大きくなっていきます。最初は20cm程度だったのが、最盛期には90cmほどに。大きさとともに、華美さにも拍車がかかっていきました。
幕府の禁令から生まれた「芥子雛」
より煌びやかに、より大きく……と、競うように豪華なおひな様が生み出された享保時代ですが、当時の幕府は倹約を推奨する姿勢をとっており、これを良しとしませんでした。
ついに、庶民に対し「八寸(約24cm)以上の雛人形の製造・販売を禁ずる」という厳しい禁令が出されてしまいます。
あちこちで抜き打ちの取り調べが行われ、違反したお店は閉店を余儀なくされました。
しかし、職人たちもやられっぱなしではありません。
小さくて豪華な雛人形を作ればいいんじゃないか?
このひらめきから生まれたのが芥子(けし)雛です。
大きさは10cm以下という極小サイズ。しかし趣向を凝らし、華やかかつ精巧に作られていました。
技と執念が詰まった芥子雛はたちまち大流行。庶民だけでなく、大名家や将軍家にも人気があったようです。
職人たちの「これなら文句ないだろう!」という得意げな様子が目に浮かびますね。
ほぼ現代の姿に!「有職雛」「古今雛」
江戸時代中後期、京都で公家の装束を正確に模して作られた有職雛が誕生します。こちらは一般庶民向けではなく、公家や大名家といった上流階級の家で飾られていました。
公家・武家の儀式典礼や、住居、調度、衣服などすべての生活用具および古法、作法を研究する学問「有職故実」からその名がつきました。
豪華さではなく、いかに公家社会の礼式にかなった姿に作るか、が重視されていました。
顔立ちは面長で上品。男雛は正装である衣冠束帯を纏い、女雛は十二単に大垂髪(おすべらかし)という髪型をしたタイプが多かったそう。このヘアスタイルは、皇族や官女が宮中の儀式の際に結っていた正式なものです。現代のおひな様にもよく見られますね。
有職雛からほんの少し遅れて、江戸では古今雛が登場します。
こちらは有職雛に比べて創作的で、それまでの様式を合体させた豪華なおひな様でした。格式にとらわれないスタイルは当時の江戸の人々に愛好され、特に裕福な町人の間で人気があったようです。
衣装には金糸や色糸で華やかな刺繍を施し、女雛は天冠(てんかん)と呼ばれる冠を身につけていました。
特徴的なのはその顔立ち。両眼にガラス玉や水晶玉をはめ込んだことで、活き活きとした表情のおひな様になっていました。当時この技法は非常に画期的で、現代の雛人形にも用いられています。
宮中の様子を正確に表現した有職雛と、華やかで表情豊かな古今雛。ふたつのおひな様の特徴が徐々に重なり、現代の雛人形のベースになっていきました。
御殿飾りと段飾りの流行
お人形と同じく、その飾り方にも変遷がありました。江戸時代では、男雛と女雛のみの親王飾りが一般的だったといわれています。
明治・大正時代になると、関西地方で平安時代の京の御所(当時の天皇の住居)を模した御殿飾りが流行しました。御殿の中に男雛と女雛を配し、その周囲に官女などの添え人形を置いて飾るというものです。
当初は屋根のない簡素なタイプがほとんどでしたが、徐々にドールハウスのようなつくりの御殿飾りが増え、より繊細で豪華なものが次々と登場しました。
その一方で、関東地方では段飾りの雛人形が主流になっており、先述の御殿飾りは徐々に段飾りの勢力に押されて姿を消していきました。
段飾りと比べると組み立てが複雑であることや、収納が大変であったことなどが御殿飾り衰退の要因だと考えられます。
昭和に入り高度経済成長期を迎えると、大きくて豪華なものを好む世間の風潮から、十五人フルセットの七段飾りが大流行します。日本のバブル時代を反映するスタイルのひとつといえるでしょう。
平成以降はコンパクトスタイルへ
平成に入ると、都市化や核家族化の影響で住宅事情が変化し、以前よりも省スペースで飾れるおひな様が好まれるようになりました。
現在はシンプルな親王飾りや、手軽に飾れるケース飾りタイプが特に人気となっています。
また、現代のお部屋に合わせたモダンな飾り台やお人形も登場。雛人形も空間に合わせておしゃれに飾ろう、という傾向が感じられます。
おすすめはコンパクト×モダンな木目込み雛人形「ぷりふあ」シリーズ
preferオリジナル雛人形「ぷりふあ」は、かわいいお顔が特徴の小さなおひな様。手のひらにちょこんと乗るコンパクトサイズで、どんなスペースにも春の華やぎを添えてくれます。
インテリアとしても楽しめるかわいらしさと、日本の伝統を感じられる確かな技術がひとつになったお人形です。
モダンとクラシカルが見事に調和した飽きのこないデザイン。お子さまの一生の宝物にいかがでしょうか?
まとめ
それぞれの時代に合わせて変化を遂げてきたおひな様。その華やかな姿はいつも人々を魅了してきました。
現代はコンパクトで飾りやすいものが好まれる傾向にはありますが、伝統的なスタイルのものや大きな段飾りも根強く支持されています。
どんな大きさやデザインであっても、お子さまの成長と幸せを祈る気持ちは同じですし、その気持ちが最も大切です。贈る方の想いが詰まった素敵なおひな様と一緒に、楽しいひな祭りをお迎えください!
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